嘘をつくということ
ゲイは思春期に回りの人と自分の違いに気付き、それから好きな子の話、SEXの話だとか、日常の会話の中で、自分とは別のキャラクターを発言のなかに持ち込み始めます。当然ながら僕もそんなことが今でも続いており、《僕は年上の女性好きな弟キャラ》演じています。去年なんかは飲み会の後の2次会などで、少しサービス満点なお店に連れて行かれ、流れの中で女性の胸を揉んだりしなければならない状況も出てきました。全く嬉しくないし、生でなくて良かったと、その度安堵していました。相席居酒屋なんてものも行っても全く楽しめないですしね。それならナイトやイケメンのストリップショーに行ってギャーギャー騒ぎたいものです。そんな事が嫌だから、人と距離を置いて、飲み会の機会や親密にあるイベントをどんどん遠ざけてしまうのですね。
ゲイはよっぽど芯が強かったり、社会的な地位を持ち合わせて無い限りはほとんどが真っ直ぐ生きることなんてできない。人生のなかで、ヘテロセクシュアルな人たちよりも、多くの嘘を当然つく訳だし、不本意だが、虚像やよくわからないキャラクターを内在化して生きている。そうやって生きる方が、本当は苦しいことだけど、割り切ってしまえば楽だからだろう。(その面で、隠そうにも隠すことに限界があるトランスの方たちは、僕らよりもずっとつらいのだろうと思う。)
しかし割り切って嘘をつくけど、でも本当の自分の言葉を話したいという気分になることも度々ある訳で(人との距離が縮まり始めた時期に僕は必ずそんな時が来ます)この間職場の尊敬する男性の先輩(本当に真っ直ぐで憧れる生き方をしている)にカミングアウトをしました。僕のアイデンティティはやっぱりダダ漏れのように驚きはされませんでしたが、尊敬している先輩がきちんと理解してくれたことと、励ましの言葉をかけてくれたことが本当に嬉しかったです。カミングアウトは人間関係を再構築するためのステップだと思います。退職後もどこかでつながっていたい先輩です。
さて、そんなカミングアウトの場面で特に心に残る先輩の言葉がありました。「人を幸せにするような嘘」なら良いという言葉です。
職場で、別なキャラクターを演じるなかで、職場の女性のことを好きだという設定を作っていました。結局その人は僕がもしカミングアウトをしたのなら確実に傷つくはずです。それはまさしく「人を不幸にする嘘」です。日常で嘘をつくあまり、そんなことも考えずにひたすら嘘をついてしまう、そんな自分に悲しみを覚えました。
ゲイで嘘をつくのであれば、「幸福な嘘」、「不幸な嘘」をよく考えなければならないですね。「嘘」がより身近にあるからこそ切実な問題です。
僕は谷川俊太郎の詩が好きなのですが、こんな詩を思い出しました。
なんだか僕らのような人生を語っているようです。
「うそ」 谷川俊太郎
ぼくはきっとうそをつくだろう
おかあさんはうそをつくなというけど
おかあさんもうそをついたことがあって
うそはくるしいとしっているから
そういうんだとおもう
いっていることはうそでも
うそをつくきもちはほんとうなんだ
うそでしかいえないほんとのことがある
いぬだってもしくちがきけたら
うそをつくんじゃないかしら
うそをついてもうそがばれても
ぼくはあやまらない
あやまってすむようなうそはつかない
だれもしらなくてもじぶんはしっているから
ぼくはうそといっしょにいきていく
どうしてもうそがつけなくなるまで
いつもほんとにあこがれながら
ぼくはなんどもなんどもうそをつくだろう
谷川俊太郎詩集「はだか」より